「絵になる子育てなんかない」の本で気になった部分をメモメモ

■「絵になる子育て」に縛られて自分を追い詰める私たち
子供は自然である。親が思い描く絵のとおりにつくれるはずがない。

■相手を受け入れながら絶えず目をかけるのが「手入れ」
日本人本来の自然に対する姿勢は「自然との折り合い」なのです。
親はまず相手が自然であることを認める。
そのまま野放しにしては野生児になりますから、毎日ガミガミ言ってひたすら手入れし、しょっちゅう見ていなくてはならない。
「ああすればいい」「こうすればこうなる」が成り立たない。
努力・辛抱・根性が要るんです。

■地味で単調な繰り返しのなか、子供は勝手に育っていく
毎日言い続けて、8年かかったけど、2万回注意したけど、でも突然できるようになった!
手を入れておけば子どもはその子どもなりのタイミングで結果を出すんだとわかった瞬間でした。
地味な単調な作業の繰り返しのなかで、子供が勝手に育っていくんだと思い知らさせました。
毎日毎日、片付けては散らかし、また片付けては散らかして、またすぐ汚れるということがわかってる。ゴールが見えない子育て。
毎日同じ風景の繰り返しで同じ場所をぐるぐる回っているような気になる。
でも、たしかに子供はある日突然、できなかったことができるようになるし、自分も以前と比べるとずいぶん考え方が変わっています。

■生きることはリスクをとって選択することの繰り返し

■正確な情報を求める声の背後にある、楽になりたい心理
情報を出す側は確実で正確な情報を出すべきである、という要求は当然です。
ただ、その情報が、常に自分の望む「正解」であってほしいという要求でもある。
それによって自分の生活からあらゆるリスクは取り除かれるべきであると。
そこには「正解」を他人に決めてもらって楽になりたいという気持ちがあるように思うんです
正確な情報のなかから何を「正解」とするかは自分が決めるしかないのに自分ではリスクを引き受けない。
自分で確証のとれることなんてほとんどないから、どうしたってリスクをとりながら情報を選択するよりほかないはずなのに、情報を出す側が責任を持ってほしい、「正解」を出してほしい、リスクをゼロにしてほしい、という要求が強くなっていると感じます。

■スポーツではなく「体育」をやれ
体育とは自分の体をどう上手に扱うかということですから、運動能力があろうがなかろうが関係ありません。
体育ではいわゆる「コツ」を覚えるんです。それは小さいときからやっていないとなかなか身につかない。
虫捕りも立派な体育です。山の中を動き回り、木にも登らないといけないし、穴も掘るし、そうすると生き物として基本的な体の動きをひとりでに覚えていく。

■アタマだけで生きている人は操られやすい
情報操作のような大きなキャンペーンに巻き込まれてしまうのはアタマのなかだけで恐怖に駆られている人たち「都市化してしまった人間」なのではないだろうか。

■「地に足がついていない人」で成り立っている都市社会
転々と住むところを替え、勤め先を替え、上昇していく。アメリカ型スタイルはその典型です。地に足がついている農民とは違う。

■いまほど「田舎で暮らす体験」が重要な時代はない

■もう高度経済成長の成功体験から自由になろう